ノーブル・サイエンスにおける自由とは?
ノーブル・サイエンスのリーディングに興味を持つ方のいくらかは、この生まれ持ったエネルギーというのが、「自分はこのようにしか生きられない」と言う風に言われるんじゃないか?「自由ではなくなってしまう気がする」と大きな勘違いをされている事があります。そのため、このような文章を作成しました。
どのような人と関わってエネルギーが入り、また誰に自分のエネルギーを影響させ、また自分のエネルギーを物事に対してどう選択して使うのか? 人生は自分の意志による選択次第です。生まれ持ったエネルギーそれ自体には傾向があるだけで選択権がありません。 意志は言い方を変えればエゴ(自我)でもあります。
エネルギーはただそれとして働いているだけなので、それを使っている自分自身の選択方法(多くが成育史によって構築される後天的な癖のようなもの)まで生まれながらに決まっているわけではないのです。
生まれ持ったエネルギーというのは本来の自分にしかない傾向であって、リーディングしようがしまいが、このエネルギーに私達は自分なりの使い方の選択をしています。 つまり、このデザインを自分として最良の選択を持って生き切る事が人間として生まれた自分としての自由であるとノーブル・サイエンスでは考えています。
以前、こんな言葉を聞きました。「私達は自由という束縛の中に生きているようなものだ」
その方はカトリックの神父です。神は選択の自由を我々にお与えになったと言うけれど、実際のところは生まれる土地も親も性別も選べないし、年を取る事も死ぬ事も止められない・・・ということについてそのように言われていました。 確かに寿命とか選べませんが、私はこのように解釈しました。
ここでの束縛は生まれながらにして宇宙から授かった本質であり、自分自身でいる事、自分自身を生きようとする動向そのもの。 自分が正直に自分として生きる=自由になる事ではないだろうか? って思ったんですね。
逆を言ってしまえば、『どんなに自分として生きたく無くても、否応無く自分を生きるようにけしかけられる』わけです。
だから、自分の本質を生きるというのが自由であり、束縛でもあるなと。
それすらも解放されるのであれば、それは自分という存在を超えて全てと繋がる次元での自由。
自由という束縛を超えた自由は覚者というか悟りの領域かもしれませんし、それでもまだぬるいかもしれません。
なぜなら、そういう事を考えている時点で自由ではない気がするからです。
しかしながら、人間として存在している限りは無意識的に、遺伝子的に、まず自分を生きようとするので、結果としてやはりこの肉体という制限を脱がなければ解放には至らないのかもしれません。
だから私達はただ、自分として今を生きる。これにつきるのかな?と。
「自由になりたい」と思う事は、自分が自由でない事を認めている事になりますし、
自由とは、本来「自由を意識しなくていい」次元の事のような気もします。
このような事を思い煩う事自体、自由ではありませんね(笑)
そう、人間とはかくもこのような生き物なのです。だからこそ自分を探究して自分を観察しなさいと仏陀は言っています。
仏陀の遺言に「自灯明・法灯明」というのがあります。これは「自由になる」事について説かれていると思うのです。
Noble Sciences Japan 武川 実紗 著